歴史

420年以上の歴史をもつ、高取焼。
その伝統は秘伝書と共に今も受け継がれています。

 

起源・歴史HISTORY

髙取焼。
その起源は今から420年余遡る戦国時代(1600年)
朝鮮より髙取焼始祖である「八山」を大坂の陣で勇戦した後藤又兵衛が、黒田長政の名により高麗から日本へ連れてきたことから始まります。八山は、妻子揃って日本に渡ることができた上、月俸七十人扶持、寺社格という異例の高禄で迎えいれられました。

八山は鷹取山に「永満寺窯」(現・福岡県直方市)を開き、黒田長政公より、鷹取山に因み「髙取」の姓を拝領しました。髙取姓となってから、「内ヶ磯窯」に移りこの地で10年間制作します。

その後、八山は徳川三代将軍家光公の茶道指南役であった小堀遠州と出会い、指導を受けます。これを受け、髙取焼は雄揮な作風から、次第に瀟酒で洗練された作風に変わりました。その後「遠州七窯」の筆頭として多くの名物を生み出すこととなりました。髙取焼にとって大きな転換期であったといえるでしょう。

その後、八山は白旗山(現・福岡県飯塚市)に窯を移しこの地でその生涯を閉じました。
二代・八蔵貞明の時(1655年)、髙取焼宗家現住所である小石原鼓村に移り「鼓窯」を築き202年の間この地で制作を続けました。

徳川の治世も続き世も平和になった頃、小石原鼓の場所の立地上なにかと不便なので
1716年、福岡市内に「東皿山」という新工場(二号店)ができます。幕末に至るまで、髙取家の当主たち(九代目・清次郎迄)は、半年づつ小石原小石原の本店と市内の二号店(東皿山)をかけ勤めしていました。また、さらに後1741年「享保の改革」のため財政が苦しかった黒田藩の新事業として、生活雑器(食器、升徳利、食器、かめ)をつくるための「西皿山」を開窯しました。

その後、
廃藩置県により、高取家の小石原鼓の窯元と市内の東皿山は、黒田のお殿様に忠孝を尽くし窯を80年程閉じています。遠州流のお家元、黒田のお殿様、各界の数寄者の方々のご尽力により再び火が灯ったのは戦後、1957年のこと。
十一代・高取静山により、高取焼は再び高取焼直系の窯元として秘伝書をもとに当時の小石原鼓の場所に窯を築きました。


このように、永い伝統によって培われた髙取焼の技術は、秘伝書として残され、直系窯である当家に一子相伝によって伝えられてきました。

時代背景BACKGROUND

420年前、髙取焼宗家は黒田のお殿様の隠し窯、お殿様にしか献上しない「御用窯」でした。
当時茶入というのは、土地と等価であり茶入を制作できる窯元は、財政の要の一つであり重宝されました。
髙取の釉薬は特に美しく、当時他藩では無関心ではいられずこの釉薬の「秘伝」をどうにかして手に入れようと何度もスパイが潜り込もうとした記述が残っています。
小石原の地を200年以上も拠点としたのもそれが所以、
極秘保持のための地理的配慮でした。
当時は御役人が常駐し、監視が常にされ
高い塀をめぐらし陶工も厳重な監視下にありました。逃亡や裏切りは、「切り捨て」の極刑だったそうです。

初代八山が作り出した釉薬は二十二種。
釉薬の原料は「藁灰」「木灰」「サビ」「長石」の四種だけです。
初代以降、各代の当主が新しい技法を発見しては書き足し、書き足ししています。
この秘伝書は門外不出の記録です。

高取焼宗家にのみ残される秘伝書となります。

髙取焼の直系窯としてPROUD OF HISTORY

初代から直系で「八山」(はちざん)を受け継いでいるのは髙取焼宗家です。

初代 八山と妻しらとの墓。
飯塚で没した初代の墓を当窯元に移築しました。
当時の黒田藩の末裔である黒田長禮公のご厚意により、朝鮮式の盛り土の墓を建立。


唯一の直系窯である髙取焼宗家は、現在でも遠州流のお家元にご指導いただきながら、作陶しております。

窯元内の施設CLASSIC GROUND

撃鼓神社は髙取焼宗家の敷地内にある神社です。
天照大御神様と焼き物の神様が祀られています。
茶室 残月は当窯元に移築した茶室です。
現在の福岡市内の千代町あたりにあった迎賓館「常盤館」にあった離れのお茶室。
その昔、中国の指導者・孫文が寝泊まりしていたといいます。
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