髙取焼の歴史
永い伝統によって培われた
髙取焼の技術は「秘伝書」として残され
直系窯である当家に一子相伝によって
伝えられてきました。
ABOUT髙取焼とは
髙取焼始祖・八山によりはじまる髙取焼
髙取焼。その起源は今から420年遡る戦国時代(1600年)文禄・慶長の役の際、黒田如水公・長政公は御陣所の近くに「八山」と号する名陶工の存在を知り、日本へ来ることを要請され、両君の御人徳に惹かれた八山は家族と共に海を渡りました。
初代・八山は士分として帯刀を許され、御殿様に御目通り叶う半礼の身分を賜り、寺格・社格という当時としては異例の待遇で迎えられました。髙取焼は、慶長5年(1600)現直方市にある鷹取山の麓に永満寺窯を築かせたのが始まりです。この時八山は鷹取山に因んだ「髙取」の姓と和名「八蔵」の名前を賜り、髙取八蔵重貞と名乗ります。これが髙取焼の名称の由来であり、以降、黒田藩御用窯として多くの銘品が生み出されてきました。
400年を越える長い歴史の中で時代の影響を受けながら髙取焼は姿を変えていきます。開窯当初の器は、破調の美を特徴とする織部好みによって作られ『古髙取』と呼ばれています。その後、江戸時代に徳川将軍の茶道指南役であった小堀遠州公により指導を受け『綺麗さび』と表現される瀟洒で洗練された美意識を受け継いだものは『遠州髙取』と呼ばれるようになります。
二つの対照的な作風をもちながら、永い歴史と伝統によって培われた髙取焼の技術は「秘伝書」として残され、今もなお直系窯である当家に一子相伝によって受け継がれております。
HISTORY髙取焼の歴史
陶工として藩主に重宝された髙取八山
慶長5年(1600年)鷹取山麓に【永満寺宅間窯】を築きました。その後、鞍手郡に織部好みの【内ヶ磯窯】寛永元年(1624年)に嘉麻市に【山田窯】を築いた後、遠州好みの【白旗山窯】を飯塚市に移窯。寛文5年(1665年)二代・八郎貞明の頃に現在の東峰村小石原鼓に【鼓窯】を移窯し、髙取焼は廃藩置県まで黒田藩の御用窯として続きます。
御用窯であった髙取焼は藩主にのみ献上していた隠し窯。名器をひとつ焼き上げると残りは全て割捨てられるほど徹底した献上品造りを通していたために一般の世の中に出回ることはありませんでした。唯一無二の名器を生み出すには、薄造りを叶える土と技術、さらに一子相伝にて調合される釉薬【七色くすり】に秘法が込められています。
髙取焼宗家は大名やお茶人のみしか持つことができなかった直系の伝承窯なのです。
BACKGROUND時代背景
当時、茶入は土地と等価であり、財政の要の1つでした。
領土の狭い日本では戦国時代には戦の褒美として土地を与える代わりに茶入を与えられたほど、茶入の価値が高いものでした。髙取焼はその茶入を作ることにかけては非常に長けていて、薄く軽く作る高度な技術を持っていました。
そのため土地と等価である茶入を制作できる窯元は、財政の要の一つであり藩の大名から大変重宝されました。
髙取の「七色くすり」と言われる釉薬は特に優美で、当時の他藩の諸大名は無関心ではいられず、この釉薬の「秘伝」をどうにかして手に入れたがる者がいたとの記述が残っています。小石原という山奥を拠点としたのもそれが所以、極秘保持のための地理的配慮でした。この秘伝は門外不出の記録であり、400年以上、始祖・髙取八山の直系窯である髙取焼宗家にのみ伝えられる「秘伝書」なのです。
窯元の敷地に佇む初代・髙取八山の墓
初代・八山の墓は髙取家のみならず日本の陶芸史の上からも文化的財産と考えられます。風水説にしたがって墓は南向きに、西・北・東の三方に山があり、囲まれるようになった場所がよく、さらに清流が墓の近くを東から南に流れているのが望ましいということで現在、窯元の敷地内で条件を満たす小高い場所に安置されています。
左が『八山の墓』右が妻『志らとの墓』。緑の芝生に覆われた二つの美しい朝鮮式の土まんじゅうの塚となっています。旧・黒田藩の当時の御当主、黒田長禮公より御寄進頂き、黒田家寄贈の碑も建立させていただいています。
初代・八山の完成させた遠州髙取の作風を、その伝統的な作風を守り、継続させることが八山への鎮魂になるのだと私は信じています。
(『炎は海を越えて』十一代 髙取静山著)
PROUD OF HISTORY髙取焼の直系窯として
初代から直系で「八山」(はちざん)を受け継いでいるのは髙取焼宗家です。
唯一の直系窯である髙取焼宗家は、現在でも遠州流のお家元にご指導いただきながら、作陶しております。
CLASSIC GROUND窯元内の施設
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撃鼓神社は髙取焼宗家の敷地内にある神社です。天照大御神様と焼物の神様が祀られています。
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茶室「残月亭」
かつて福岡市内の千代町にあった迎賓館「常磐館」の離れに建てられたお茶室。
1965年頃に高取焼宗家十一代高取静山が常盤館の主であった柴藤家から寄贈され当窯元に移築したものである。
このお茶室は、表千家にある書院形式の茶室「残月亭」を模したもので、お茶室の名前の由来は、戦国時代、豊臣秀吉が上段の床の柱(太閤柱)にもたれて名残の月を眺めたことから「残月亭」と名づけられたとされている。
迎賓館「常盤館」が造営された1900年初頭には、このお茶室で中国の指導者・孫文が寝泊まりしていたとされている。お茶室の中だけでなく、柱の下の土台である礎石でさえも完全移築復元されている。“ Zangetsutei ” Tea room
This tea ceremony room was built in a detached building of the guest house "Tokiwa-kan", which was formerly located in Chiyo-machi, Fukuoka City. Around 1965, the owners of Tokiwa-kan, the Shibatoh family, donated it to the 11th head of the Takatori ware family, TAKATORI Seizan, who had it reconstructed in its present location.
This tea ceremony room is modeled after the Zangetsu-tei, a shoin-style tea ceremony room of the Omotesenke family. The name "Zangetsu-tei" is said to have come from the fact that the military commander TOYOTOMI Hideyoshi would lean against the upper floor pillar (Taikoubashira) during the Warring States period (1467-1568) to watch the last vestiges of the evening moon.
Chinese leader Sun Yat-sen is said to have slept in this tea room in the early 1900s, when the guest house "Tokiwa-kan" was first built.
Not only was the inside of the tea room dismantled and completely reconstructed, but even the foundation stones under the pillars were moved and restored.